骨董のコーナーへようこそ

骨董品大好き人間ですが、私自信が買い求め収集したものはありません。ここに紹介するものは全て相原池戸で代々使い、受け継がれてきたものばかりで特に良いものではありません。
先ず冒頭は相原池戸について私が調べた(推測もあるが)限りで紹介します。



1.相原村
 昭和30年まで郡上郡東村と呼ばれていた地域は、慶長五年(1600)関が原の戦功によって、遠藤但馬守慶隆が郡上郡八幡で二万七千石を領した折、その領地に含まれた。もともと遠藤慶隆は八幡城主の子として生まれたが、豊臣秀吉の命により加茂郡小原七千五百石の領主に移されていた。その慶隆が関が原の役の折、稲葉貞通を攻めて八幡城を陥した戦功を賞されて旧領を回復し八幡城主に返り咲いた。初代但馬守慶隆は寛永九年(1632)多事だった生涯を八三歳で終えた。二代慶利は始め伊勢守を名乗っていたが、家を継いだ寛永九年から但馬守を名乗り駿府在番を勤めたこともあった。三代備前守常友は二代慶利の子で正保三年(1646)家を継いだ。その折、領地ニ万七千石のうち二万四千石を継ぎ、残る三千石を二人の弟に分けた。その弟のうち大助常昭に下川筋、和良筋でニ千石、金兵衛常紀に和良筋で一千石を与えた。
すなわち大助の家が二千石遠藤または乙原遠藤と呼ばれ、金兵衛の家が千石遠藤または和良遠藤と言う。(金山町史)
大助常昭に与えられたニ千七二石の領地は、村でいえば西乙原、福手、門原、弓掛、中原、相原、八坂、岩屋、広瀬,沓部、方須、宮地、法師丸の一部で、陣屋は西乙原の上野と言うところにあり、明治維新まで(八代新六郎まで)続いた。(金山町史)
したがって、相原村は江戸時代のほとんど(223年間)が二千石の直参旗本遠藤家の領地であった。


2.池戸氏
 池戸氏のルーツは、古くは広野王(天平宝字二年(758)広野王が池上真人姓を賜る(左京人、皇別、橘氏流))・・・・>春日王・・・>敏達天皇へと遡ることができる。(敏達天皇から出た氏族は「橘紋」を使う)
 広野王からイケノヘ氏(池上氏、池戸氏)が出ており(現在も奈良県桜井市内に池戸姓が残っている)天承元年(1131)頃美濃国池田郡春日部郷に定着。(現在の揖斐郡春日村池戸付近にかって池戸城があった)
 また、遠藤但馬守慶隆の家来であった池戸喜八郎、池戸孫七郎などが和良村下洞に住み着いたと言う記録が残っている。(東洋大学教授大島建彦著「和良の民俗」)

煤で真っ黒になった丸に橘の定紋入
りの弓張の箱
池戸何某と言う者の事件について
  ・天文十年(1541)東常慶と鷲見貞保の合戦で池戸内記の記述あり
  ・永禄二年(1559)池戸若狭が郡上郡大嶋を領有する
  ・永禄十二年(1569)遠藤慶隆と謀反郷士の合戦で池戸作右衛門の記述あり
  ・永禄十二年(1569)遠藤慶隆と金森自綱の合戦で池戸若狭の記述あり
  ・天正二年(1574)遠藤盛数と斎藤新吾の合戦で池戸勝右衛門の記述あり
  ・天正二年(1574)橘山合戦で池戸与十郎が討ち死に
  ・天正年間の遠藤家中分限帳によると、池戸内記400石、池戸善兵衛250石、池戸勝兵衛250
   石、池戸蔵人100石、池戸七兵衛100石、池戸十蔵100石とある 
  ・天正十六年(1588)遠藤慶隆が東美濃の加茂郡小原七千五百石の領主に国替えされたことに
   伴い、池戸外記70石、池戸善兵衛70石となる
  ・慶長五年(1600)遠藤慶隆が関が原の役の折、稲葉貞通を攻めて八幡城を陥した戦功を賞さ
   れて旧領を回復し八幡城主に返り咲いた折に、池戸勝右衛門、池戸平作、池戸重蔵、池戸所助
   池戸平助の記述あり
  ・慶長十九年(1614)大阪冬の陣で池戸善兵衛が甲首一つ取るとの記述あり
  ・延宝五年(1677)百姓騒動で減税派は処分され池戸弥右衛門、池戸求馬助も改易となった


3.相原池戸
  相原池戸のルーツは江戸時代の元禄頃(五代将軍綱吉〜八代吉宗の頃)に遡る。初代源四郎(相原池戸は代々源四郎を世襲)
  が寛保元年(1741)(「公事方御定書」制定の前年)に没しており、定かではないが元禄年間の後半に戸川村下谷
 (千石遠藤の領地)から移ったと伝えられている。その後四代、五代、六代のころ相原村庄屋を務めていたようである。
  明治維新に際し明治元年笠松県役所に差し出した「明細帳」に「相原村庄屋源四郎」(六代)の名が記載されており、
 その中で相原村は石高六三石八斗五升とある。(現物全八頁(下写真は抜粋)は岐阜県歴史資料館蔵)

  自村の石高は少なかったが、六代源四郎の頃は相原池戸の最隆盛期で山林、田畑は隣村まで及び、養蚕も大規模にやっており、
 間口十三間、奥行六間半の母屋に蔵、三階立ての養蚕小屋もあった。(このうち母屋、蔵は昭和46年馬瀬川第二ダムの
 建設で取り壊すまで現存していた)六代源四郎が近隣の住人に貸した金の借用証文(幕末の各年号のもの)が何枚も現存して
 いるが、当家に未だ残っているということは、返済されておらず不良債権化してしまったようである。
  また、七代目(源二郎)は、旧幕時代の小さな村々を統合してできた東村(郡上郡)の戸長(村長)となり、併せて郡会議員
 でもあった。この七代目は一度も野良着をきたこともなく生涯羽織袴での生活だったと聞き及んでいる。当代で十二代(実質は十代)
 およそ300年の歴史である。

相原池戸に現存する什器は殆ど四代目、五代目、六代目の頃、特に六代目が買い求めたものである。
とは言うものの、何十万円、何百万円するようなもの(いわゆるお宝)は一つとしてない。片田舎の百姓が冠婚葬祭を自家で催す
時に使うため購入した食器類(雑器)等であり、大名や大商人がコレクションした鑑賞用のものとはまったく違う。
しかしながら、それぞれに時代の味があり、家に伝わったものとして大切にし後世に残していきたいと考えています。
どうぞ、そのつもりで観ていただきたいと思います。

それでは、その一部を少しづつ紹介していきます。

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骨董その10 骨董その11

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